という問いかけを翻訳まとめサイトで見た。で、各々が色々と言っていた。
だがこれはそもそも問いが正確でない。
正しくは、「中国共産党の50年支配とインドの50年支配、どちらを選ぶ?」だ。
考えるまでもない。
ーその時の気持ちとしてはどうでしたか。ほっとしたとか?
いや、とにかく荷物がないことに腹が立って、ということと、トルコ政府側に引き渡されるとすぐに日本大使館に引き渡されると。そうなると、あたかも日本政府が何か動いて解放されたかのように思う人がおそらくいるんじゃないかと。それだけは避けたかったので、ああいう形の解放のされ方というのは望まない解放のされ方だったということがありまして。
シリアで拘束されていたフリージャーナリストの安田純平さんの解放をめぐり、重要な役割を果たしたとされるカタールのテロ対策の専門家はNHKの取材に対し、「日本政府と緊密に連携し、失敗のおそれがあるため交渉は極秘で進められた」と述べ、日本政府の依頼を受けて、水面下の交渉があったとの見方を示しました。
安田さん無事に日本に帰ることができておめでたい限りだが、日本政府は動いてないと断定しちゃうあたりジャーナリストとしてある意味すごい。
普通こういう時はおおっぴらに動いたりなんかしないと思うんだが。
先頃、個人作家やアマチュアがハンドメイド作品を販売する Creema というサイトで買い物をしてみました。
思った以上に良い品物が届いて満足しています。
さていろいろ覗いて回ってみるに、信用できそうなまじめな出品が大概なのですが、中にはなんか怪しいのもあって、どうも安手の既製品を仕入れて来て、「手作りです」 と謳って高く売ってるように思えるものもちらほら。
疑わしいな、というにとどまるんだけど、考えてみればそういうことをする手合いはきっといるだろうし、気を付けて利用しよう。
「オーパーツ」なんて書いたけど、別にオカルトめいた話ではない。
しかし、彼が1917年(大正6年)に描いたとされる一枚の自画像は、宗教的でありながら不思議と現代性すら感じさせるような精緻なリアリズムで描かれていて、なぜ当時の日本でこのような傑作がと思わせる類例のないものであり、そして彼自身もこの後これに並ぶ出来の作品を残すことはついになく、言いにくいがこの傑作に比べると他の作品は見劣りするものが多く、要するにこの一つが奇妙に突出している。
また、彼の生涯にはよくわかっていないこと、解せないことも多く、それで「オーパーツ」などという言葉を使った。
河野通勢、「こうの みちせい」と読む。
1895年、明治28年の生まれ。1950年に没する。この絵は彼が22歳の時ということになる。岸田劉生のリアリズムの傑作『古屋君の肖像』が1916年、劉生25歳の作品であるから、劉生の影響があるとしてもやはりこれは驚くべき作品である。
一般的に言って、細かな顔のしわまで余さず描き込むような徹底した写実的描写は生々しいもの、時にはグロテスクなものにもなる。また徹底した写実的描写というのは念入りな作業でもあるので、どうしても絵がしつこい、くどいものになりがちでもある。
しかしこの絵にはそういうところがなく、生身の人間のリアルな描写を突き詰めているのにそれがむしろ静かで澄んだ精神性を感じさせるものにまで高められている。
この絵を一度見てみたいとかねがね思っているのだが、残念なことに収蔵しているのはアメリカの美術館だということだ。
河野通勢 - Wikipedia
Kohno Michisei - Wikipedia
スカもレゲエも実はごく初期に普通のポップスの体裁で世界的なヒット曲を出している。どちらもよく売れて日本でもレコードが発売された。
1964年、ミリ―・スモールの My Boy Lollipop。
Millie Small My Boy Lollipop Original) YouTube
スカにハーモニカというのがちょっと珍しい。ウィキペディアによると、もともとはホーンだったパートをハーモニカに替えたらしい。それでよりポップス寄りになっている感じ。
「新リズム スカ 登場!!」
プロデューサーはアイランド・レコードを創業したイギリス人、クリス・ブラックウェル。この世界的大ヒットを足掛かりにアイランドは発展したとのこと。
「唄」という表記や330円という価格に時代を感じる。でもよく考えれば1964年頃にシングル盤330円って結構な値段か。してみるとレコードって高い物だったんだな。
1968年、デズモンド・デッカーの Israelites。
Desmond Dekker-Israelites
ミュージックビデオはおそらくイギリスで撮影されたものだろう。いわゆる「レゲエ」のイメージとはだいぶ違った雰囲気だし、最初に聴いたときはこれがレゲエだとは思わなかった。
邦題は「イスラエルちゃん」なんて残念なタイトル。
この曲は1969年のものだという記述も時々見られるが、写真の通り、1968年のリリース。最も初期のレゲエの一枚と言うことができる。
プロデューサーはレスリー・コング。*1
彼はジャマイカの音楽に大きく貢献したのだが、残念ながらレゲエが本格的に流行る前、1971年に30代で若死にしてしまった。
tyurico.hatenablog.com
tyurico.hatenablog.com