膨らまない話。

Tyurico's blog

俳句とか季語とかは関係ない。  吉田拓郎 『旅の宿』の歌詞について

もう十数年昔の事、ある地方紙のコラムでおおよそ次のような指摘を目にした。

吉田拓郎の『旅の宿』の歌詞から、当時の若者にはまだ俳句を詠むという習慣があったということを知ることができる。」

筆者は評論家とか文筆家とかであった筈で、少なくとも読者投稿などではなかった。

それはないだろうと呆れた。
「ひとつ俳句でもひねって」という歌詞の表現からまさかその若者が俳句を詠んでいるようには到底思えなかった。情景はおそらく、旅先の温泉宿で湯上りの恋人二人、この状況で本当に俳句を詠んだのだとしたら滑稽すぎる。

 
歌詞はストレートに「俳句をひねって」と歌っているのではなく、
「俳句でもひねって」と歌っているのであるし、また「風流だ」ではなく「風流だなんて」と歌っているのであり、その「でも」や「なんて」という微妙な言葉遣いを無くしたらこの歌詞の面白さは大きく失われてしまう。


こんな昔の不審を思い出したのは、先頃、ある有名なブログがやはり同様に「俳句」という観点からこの歌詞を難じているのを読んだからだ。
そのブログは、俳句などと言いながら浴衣だの尾花だの熱燗だのと季語としてまるでバラバラな言葉を盛り込んでいて全く笑止である、私も俳句をたしなんでいるんだがこれだから歌謡曲の歌詞なんぞは、というふうに腐していたく得意気だった。
論点は異なるが、かつての新聞コラムもその有名ブログも歌詞の青年が俳句を詠むような人物だとする前提、俳句の嗜みを当然とする前提においては双方選ぶところがない。


しかし私はやはり、この歌詞から青年が俳句を詠むような人物だとは到底感じることができない。
「風流だなんて」、「俳句でも」という歌詞の、「だなんて」、「でも」という表現が利いているのを見落としては仕方ないだろう。
彼女の頬と耳は真っ赤、と艶っぽく来て、次いで「風流だ」なんてズレた感慨は普通は来ない。そこを「風流だなんて」と空とぼけているわけであって。その前の「もういっぱいいかがなんて」という歌詞も、それこそ常日頃はこんな言葉を口にしない、「もういっぱいいかが」なんていう言葉が不馴れな女性だからこその表現だろうし。




また二番の歌詞でも同じように、「だったけ」、「なんて」などの曖昧でおぼつかない言葉づかいで語られている。
だいたい俳句を嗜みとするような人間たったら月を見るのも久しぶりだなんてことはないかと思う。まあこういうチグハグに見えるところがかのブログに責められる所以なのだが、しかしそもそも俳句なんかの嗜みも無い青年が描かれていたのだとしたらそのような非難の意味は無くなる。いやおそらく意味は無い。「風流」や「俳句」という言葉は、はぐらかしでしかないと思う。



今回はじめて意識的にすべての歌詞を見て、歌詞が「~て」、「~で」という尻切れの形を多用していることにも目が行った。「歯切れの悪さ」と「似つかわしくなさ」という二点を強く感じる。
この歌詞に感じる面白さを言い表せば、高まりそうで結局は成らず終いの、最後まで中途半端に外し、崩していることだと思う。
「俳句」、「風流」、「上弦の月」などといった言葉も、気恥ずかしさというか戸惑いというか、はぐらかしに出た青年の使い慣れない言葉であって、歌の情景にはむしろ場違いな言葉として歌詞に入れられたのではないか。

俳句のたしなみも結構だが、単純に解される言葉にのみに反応しているようでは単純すぎると思う。



しかし今回調べて初めて知ったのだが、作詞は吉田拓郎さんではなく岡本おさみさんだった。

 
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