膨らまない話。

Tyurico's blog

「極北」という意味がよくわからない言葉

昔、ある新聞の書評欄でこんな文章を目にした。
 
現代文学の極北で一人孤独な闘いを続ける女コマンドー赤坂真理。」
  
なんて大げさでくだらない文章なんだという印象が強烈だったので、細部はともかく「現代文学の極北」と「女コマンドー」に間違いはないはずだ。


評者は「極北」という日本語をどんなつもりで使ったのだろうか。褒めたのには違いない。まあそれはわかる。しかしおそらくこの評者は「非常に厳しく困難な領域で」という程度の大雑把な考えでなんとなく使ったに過ぎないのだと思う。イメージ的にはすごく寒くて暗くて辛くて氷雪が吹き荒れていて、というような。
しかしなぜ「極限」では言い足りないのかと考えてしまう。こういった「現代文学の極北」というような大げさでよくわからない表現は、いったいどのような意味で用いられていると考えたらよいだろうか。

電子辞書版の広辞苑では、「はるか北の方。北の果て。北極に近い所。」としかない。これではない。
WEB上の大辞泉を見ると 「1 北の果て。北極に近い所。 2 物事が極限にまで達したところ。 」とあって、2の用例として「純文学の―を目指す試み」とある。この2の方だ。*1


この例文もそうだが、やはり「極北」という日本語が比喩的に用いられるのは、文学や音楽や美術など表現のジャンルについての文章が多いように思う。例えば「絵画表現の極北」というように。

対して、スポーツだとか科学技術だとかの世界を論じる際に 「極北」 という言葉が用いられるのは見かけない。例えば「100メートル走の極北に挑む」とか言わないだろう。 「極限」 とか 「限界」 とかもっと単純に言うだろう。数学界の積年の難問に挑むような場合でも言わないように思う。( まあ探せばそういう文例もあるかもしれないが、傾向としては見られない。)

一方が「極限」あたりで簡単に済ませるのに、他方がわざわざ「極北」というわかりにくい言葉を好んで使いたがるのを考えれば、「物事が極限にまで達したところ。」というだけでは説明が十分だとは言えない。
表現のジャンルを論じて「極北」という言葉を選ぶ時、そこに「他に誰も到達していない非常に厳しい領域において困難な仕事にただ一人挑んでいる」という意味を盛り込みたいんじゃないかと思う。
 
 
ところで、もし「極北」という言葉を地球の上で「北の果て」という説明の通りに考えるならば、「極北」とはとどのつまり北の極まるところであり、北上して正にその一点に至ったならばその先にもはや北はなく、また見渡して東も西も南もないわけであって、「極北」 とは「方角の消失する地点」ということになるだろう。 あるいはまた「どれくらい北?」 という問いかけが無効になる地点。尺度に従って突き詰めて行った末の、尺度そのものが無意味となる地点。
「北」 が果てるところ、「北」という意味の消失する地点、という意味でなら、確かに「北の果て」であるに違いない。


そのような意味で、「小説の極北」とか言うのであればその表現は理解できる。
それ以上押し進めたならばもはやそれは小説ではなくなる、小説として成立しなくなってしまうギリギリのところ、という意味で。

だが、「非常に厳しく困難な未踏の領域」、「それ以上すごいものは考えられない」という程度のことを単にカッコよく言いたいために「極北」という言葉をただ漠然と用いているのであればそれは大げさに過ぎまた安直に過ぎる。これは文学や美術などを論じる言論の悪い癖、安手の悪い趣味でしかないと思う。

また 「物事が極限にまで達したところ」 と言うのも見方を変えれば要するにそれは「どんづまり」であって、「物事が極限にまで達したところ」というまでのエライところで次に始まるのは自壊か衰退ではないかと思う。もう「その先はない」のだから。
何にしても「極北」という言葉はそう易々と使えるような軽いものではないだろうが、どうも文学の周りでは気軽にちょいちょい使われているように思う。
 
 
 
 
*1 同じWEB上の辞書でも大辞林の方の説明は「北の果て。また、北極に近い所。」としかない。また参考にさせていただいたこちらのサイトの記事は1997年のもので、「北の果て、北極に近いところ」という意味以外の説明がある辞書は見られない。また昭和30年の広辞苑に当たってみたところ、「極北」の項目すら無かった。