膨らまない話。

Tyurico's blog

SF作品の中の「小さい」テクノロジー描写のむずかしさ

前も別のマンガで同じことを思ったのだが、久しぶりに芦奈野ひとしさんの『ヨコハマ買い出し紀行』を読み返していて再度思った。

近未来、海面の上昇が続いて人類が緩やかに衰退しつつあるとはいえなんだかのんびりとした暮らしの世界で、可愛い女の子のロボットが喫茶店を営んでいてという感じのゆるいマンガで、
こんなベタな説明だと「じゃあ読まなくていいな」と即断されてしまいかねないが、こういう粗い説明の網には全くかからないごく微妙なところ、その世界に吹いている風だとか、光だとか匂いだとか、音だとか、時間の移ろいだとか、人物たちの何気ない表情だとか、こういう微妙な描写に他の人が真似できないような上手さがあって、そういうところが大きな魅力だった。
まあそのように、ハードなSFなんかではないし話らしい話もないようなマンガなのだが。

で、その中に「ひと粒300枚」という話があって、未来のカメラが出てくる。
1個で300枚撮れるというメモリーの形状と大きさがちょうどキャラメルのような感じで、それで「ひと粒300枚」というタイトルになっている。
確認するとこの話が掲載されたのは1995年で、もちろん当時としては「300枚も撮れる」ということだったのだが、今日となっては300枚というのは全然大きな容量ではなくなってしまっている。


表題の「小さい」テクノロジーという言葉は書くに当たってなんとなく思いついた言い回しで、でも逆にナノマシンのようなものを考えるとそれはむしろ「大きい」テクノロジーだろうなとも思い、この辺まで書いて、この「小さい」テクノロジーという言葉で「大がかりでなく身体的なスケールからかけ離れていない道具性の高いもの」というようなことを言いたかったんだろうと気付いた。
 
銀河を旅する巨大宇宙船だとか、惑星さえ破壊する超兵器だとか、人間と見分けのつかない自律型アンドロイドとか、空を縦横に飛び交う自動車とか、そういうのはいまだにイマジネーションの域を越え出ない。
ところが、カメラのメモリーだとか携帯式の通信機器だとか、ことが現実の延長線上に在るテクノロジーの描写となると、現実の方がはるかに速いペースで追い越してしまっている状況が時にある。


あるいは、要するに大きなウソの方がむしろ簡単だということなのだろうか?
最後なんだか一行で片付いてしまったみたいな。