膨らまない話。

Tyurico's blog

『相楽総三とその同志』を読んでいて引いてしまった。

勤王倒幕で働いていたのに偽官軍の汚名を着せられて処刑されてしまった相楽総三たちの冤を雪ぐために長谷川伸が記したという史伝、『相楽総三とその同志』。
昔から気にはなっていたが、少し前にようやく買って読み出した。
引いたというのは以下の短い記述で、事実この通りとすれば全く没義道と言う他ないことを相楽はやらかしている。

相楽にとって残念に耐えないのは、新田満次郎が起たなかったこともだが、堀内敬内の計画が破れたことである。しかし、遺恨に耐え難いのは、渋谷和四郎、木村喜蔵、宮内左右平らである。殊に渋谷、木村は同志の怨みの的である。そこへ、上州からの報告で、邸外の同志金井文八郎らが渋谷の手で捕縛されたと知るや、いよいよ以て許すべからずと、報復の挙に出ることを決意した。それは江戸にいる渋谷らの家族を鏖殺することで、早速、主任者が選ばれた。
  (中略)
峰尾小一郎以外、十二月二十三日の夜、渋谷和四郎、木村喜蔵、その他、神田川岸にあった屋敷に斬りこんだときの連中が、だれだれか、知るべきものが今のところない。ただ、「殺傷容赦なし」とだけ、『薩邸事件略記』にもあるし、木村亀太郎の調査した資料にもある。さんざんに遣って、泊り客まで斬った。
 
(中公文庫上巻 p.184,185)

 

少し説明を加えると渋谷和四郎というのは関八州取締出役で、彼らによって相楽たちの栃木陣屋襲撃などの企ては砕かれて、多くの同志配下が討たれまた捕縛された。
その恨みを晴らさんとして、相楽は配下に命じて「渋谷らの家族を鏖殺」、皆殺しにしたというのだ。ひどい話だ。
 

結局、相楽たちは官軍を騙った偽官軍だと処刑されてしまった。
だが相楽たちが最期を迎えた地である信州下諏訪には彼らを祀った「魁塚」という古い石碑がきれいな形で残されているし、式典も今なお行われているらしい。
汚名を着せられ処刑されたにしても彼らには石碑があり手向けの花がある。
むしろ筋違いの怨みを向けられて皆殺しにされた渋谷和四郎たちの家族の方がよほど不憫だとしか思えなかった。
 
相楽総三は無辜であるか。
「鏖殺」が本当なら相楽は死に値する非道を為したと言うべきである。
 

相楽は無学な無頼の輩などではなく、裕福な郷士の家に生れて学問を好み若いうちから百人を越える門人を持ったような人物だったらしいが、これでは『るろ剣』の相楽左之助も「相楽」の苗字を叩きつけて返上するレベル。
 

 2020 12月追記
長谷川伸の書いたものは好みでそれでこの本も読もうと思ったのだけど、私は長谷川伸という人がちょっとわからなくなってしまった。
渋谷和四郎たちの家族には思いが向かないのか。
あと、この本を読んで感銘を受けたという人たちは相楽の「鏖殺」をどう思っているのか不思議に思う。
 

 
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