このコロナ禍においてオードリー・タンという人を知ってから、ダイバーシティという言葉について考えるようになった。
それ以前は大して興味も無くて、ダイバーシティというのは「職場に性別、人種、宗教とか関係なく多様な人材を雇用しましょう」というような最近流行りのビジネス用語というかスローガン、あるいは「その環境にどれくらい多様な生物が棲息しているか」という意味だと思っていた。
でもそのどちらも根本にあるのは結局「多様性=豊かさ」、「多様性の確保が豊かさや利益につながる」という視点だ。有用性だ。*1
だけどいま世界中で必要なダイバーシティというのは「違いを互いに認める」ということ、「自分とは違う在り方を互いに尊重すること」、「自分とは相容れない存在を否定しないこと」ということではないか。*2
いやそうだと思う。
これは「豊かさ」とか「有用性」に関する言葉ではない。「尊厳」に関する言葉だ。
逆に言うと、「自分の中に沸き出る自分とは違う存り方への憎悪」に対する態度のことだ。重要なのは「配慮」ではなく「自覚」だ。
おおげさな物言いになるが、これは人類がもう少しましな存在になれるかどうか、永らくずっと縛られてきた「我ら/奴ら」という敵対と排除と団結の図式から少しでも自由になれるかどうかということだと思うようになった.
しかし人類は「我ら/奴ら」でずっとやってきた。「それでずっとやってきた」ということはやはりそこには何かしら利があったからなわけで、だから逆に見るとダイバーシティという認識を得るのはそう簡単なことではないだろうなとも思う。
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