膨らまない話。

Tyurico's blog

一口に「シベリア抑留」と言ってしまうことで見えなくなるもの

 
二宮和也ラーゲリより愛を込めて』から元捕虜収容所長を祖父に持つ私が知ったこと 語られなかった「シベリア抑留の記憶」 小暮 聡子 「ニューズウィーク日本版」記者/編集者
gendai.media

81年前の1941年12月8日未明(日本時間)、日本軍がハワイ・真珠湾を攻撃して太平洋戦争に突入した。そして、1945年8月15日に日本が敗戦。1931年の満州事変を起点とすれば足掛け15年におよぶ戦争が終結したわけだが、一部の日本人にとっては、この日を境に「戦後」とはならなかった。満州朝鮮半島樺太、千島などにいた日本の軍人や民間人など約60万人がソ連軍の捕虜として旧ソ連領に連れ去られ、数年にわたって強制労働に就かされたからだ。いわゆる「シベリア抑留」である。

筆者は『ニューズウィーク日本版』の12月6日発売号で、『ラーゲリより愛を込めて』を通して知るシベリア抑留という特集を担当した。この特集の取材で、極東地方の都市コムソモリスクに3年間、抑留されていた西倉勝さん(97歳、神奈川県在住)に話を聞いたが、西倉さんによれば「虐待や暴力をふるわれることは全くなかった」という。また、あるときソ連人の民家に作業に行った際、薪割りをやってお昼になると、その家の奥さんが馬鈴薯ばれいしょ)のバター炒めを作ってくれたことが忘れられないとも語っていた。「一般の市民の中には親切な人もいた」そうだ。

シベリア南部の炭鉱の町チレンホーヴォに2年間抑留された高橋勝さん(96歳、京都府在住)も、ソ連兵による暴行はなかったと言っていた。一方で、炭鉱でソ連の作業員に採掘したノルマ分の石炭を横取りされることについて炭鉱長に抗議したところ、事情を説明しても聞いてくれないので高橋さんが炭鉱長を殴ったことがあるという。高橋さんはその罰として、土堀の営倉に1週間入れられたとも話していた。

シベリア抑留中の「救い」について、映画の中では、娯楽があまり許されなかった様子が描かれている。しかし、収容所によっては音楽隊や演劇隊などの文化芸術活動が許されており、演芸会が開催されることもあったそうだ。京都府舞鶴市にある舞鶴引揚記念館には、収容所で実際に使われていたトランペットや麻雀パイなどが展示されており、高橋さんも「月に1回、全員が一か所に集まり演芸会を開いた」と証言している。一方、西倉さんの収容所には「野球や俳句や歌といった、娯楽は全くなかった」。

シベリア抑留といっても、抑留先は旧ソ連およびモンゴルの広範囲にわたり、約2000カ所も存在した。約60万人の抑留者の体験はさまざまであり、その多くが広く知られてはこなかった。抑留生活中には紙と鉛筆がなく(シラカバの皮を紙代わりに、煙突のすすをインクにして日記をつけた人もいる)、あったとしても、帰国の際に文書をソ連の外に持ち出すことが許されなかったため、そもそも「リアルタイムの記録」がほとんど残されていない。

 
私のおじいさんも抑留体験者だが昔聞いた話から判断するにどうもシベリアではなかったと思われる。
やはり「シベリア抑留」という言葉で一括りにするのは正確でないし良くない。語弊と言うべきである。私はそのイメージのためにもっと踏み込んで話を聞くことをためらってしまった。それを惜しく思っている。
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ラーゲリから生還した男」と「ロシアバレエを極めた男」が語る…ウクライナでの戦争を終わらせるヒント TBS NEWS DIG
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横浜市に住む新関省二さん(96)は、整備兵として満州の飛行場にいた時に終戦を迎え、シベリア西部の炭鉱の町 レーニンスククズネツキーの収容所に入れられた。

「だまされてね。ダモイ(=帰国)だ、日本から船が来ると言われ、1500人単位で貨車に乗せられたんだけど、行けども行けども港に着かない。やっと大きな海に着いたと思ったらバイカル湖だった。そこで捕虜になったと気づいたんですよ」

ドイツ人捕虜と入れ替えで収容所に入ったが、衛生状態が悪く、最初の2か月は毎日のように仲間がシラミによる発疹チフスで亡くなった。

「朝起きて見たら(仲間が)冷たくなっていて。最終的に10人に1人が亡くなったんです」

シベリア抑留者は木材伐採、鉄道建設、炭鉱掘削などの過酷な重労働に従事させられたが、それでも新関さんたちは比較的恵まれた環境にあったという。

「炭鉱でノルマの2倍の石炭を採掘すると『日本人は凄い』ということになって。食糧の配給が増え待遇が良くなったんです。我々は大事な労働力だったから、乱暴されたこともなかった」

「ただ、自分が捕虜であることは絶対に忘れなかったですよ。いつかは帰国できると。あきらめが半分、希望が半分」

シベリアのバイカル湖のほとりにあるブリヤート共和国には、1万人以上の日本人が連行された。首都ウラン・ウデには日本人抑留者が建設に参加し、1952年に完成した国立オペラ・バレエ劇場がある。
2012年から7年間、劇場のバレエ団の芸術監督を務めたのが、岩田守弘さん(52)だ。

「夏は30度、冬はマイナス40度になる過酷な気候でも、日本人のつくった建物は『最近つくったの?』というぐらい立派で今でもしっかりと立っている。驚きですよ。抑留者がつくってくれた劇場で仕事ができて運命的なものを感じました。そういう建物がいっぱいあるから、街の人たちは日本人のことを尊敬し、感謝しているんです」

現地のロシア人たちが日本人抑留者の慰霊祭を毎年開くなど、日ロ友好の象徴的な存在にもなっているという。

 
ウズベキスタンで抑留者たちがオペラハウスの建設に携わった話を嶌信彦さんの本で読んだ。シベリアでもそういうことがあったのは知らなかった。

 
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