膨らまない話。

Tyurico's blog

読書メモ 『バービーと私』

宮塚文子1932年生まれ 入社間もない国際貿易の社員 当時25歳、会社はバービーの縫製が出来そうな人として採用した。
フランク・ナカムラ 日系人
シャーロット・ジョンソン デザイナー

宮本さんはジョンソンさんを尊敬、ジョンソンさんは宮本さんを信頼。マテルの人たちは宮本さんを尊重して仕事をさせてくれた。マテルの人たちは良い印象ばかりという感じ。

1957年、マテル社のジャック・ライアンとフランク・ナカムラが来日。国際貿易にバービーの衣装制作を依頼する。
とはいえ国際貿易にとってもノウハウは何もない初めての仕事。
国際貿易という立派な名前で立地も日本橋だが古い木造二階建てだったそうだ。

マテル社が宿にしていた帝国ホテルを仕事場として、一年間ジョンソンと宮本で衣装、小道具などを試作していった。
ドレス22点と水着1点が出来た。

のち1967年にタカラが出した「リカちゃん」と違ってバービーは胸が大きくウェストは細い。そのボディラインにきれいに合う衣装を作るのは何回もの試作に高い技術と工夫が必要だった。(リカちゃんは子供の玩具、バービーは大人の女性が給与で買うような物。)

宮本さんはバービーの衣装のために夢中になってもう十分ってくらいに奮闘して、結婚を機に1963年に退社、そして独立、宮本縫製を立ち上げる。
しかし当初は、国際貿易から「仕事は回さない、他社からの仕事も請けるな」と言われたという。
宮本は憤慨して、国際貿易の野田文彦専務に談判すると専務が詫びて、最終的には仕事を請けることになった。
この時宮本は便箋5枚に思いを綴り、専務からの仕事の依頼も一旦は断ったという。
宮本さんの気性と野田専務からの信頼などが窺える話だ。

日本でバービーが生産されたのは1959-1969。日本で生産された初期バービーは今なおコレクターの垂涎の的だという
その後コスト上昇から韓国などに生産が移ってしまった。

平成21年にバービー発売50周年パーティーが帝国ホテルで行われて宮本さんも招待された。
最前列に席が用意してあってマテルの副社長が挨拶にきてくれたという。
 

 
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