膨らまない話。

Tyurico's blog

「あるぞ」と「あるさ」の意味するところの違い

 
施川ユウキさんの『バーナード嬢曰く。』が面白くて読んでる。今頃になって。今年10周年だって。でも面白いんだこれが。(ずっとセガワさんだと思ってたがシカワさんだった。)
一巻に引用されてた、井伏鱒二の「花に嵐のたとえもあるさ さよならだけが人生だ」なんだが、「花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ」が正しい。
「あるさ」じゃなくて「あるぞ」。*1
 
たった一文字の違いだが「あるさ」と「あるぞ」は考えてみればかなり違う。
この場合「あるさ」だと慰めになるが、「あるぞ」だと戒めになる。
 
こういう微妙な違いを翻訳は乗り越えることができるかと考えるとこれは難しいとこだよな。ごく短い表現であるだけに。
ただ「あるさ」との違いで「あるぞ」の意味が浮かび出てきたように別の言語に乗せる作業を通してその言葉の意味がはっきり意識されるということもあるか。

思い出したが、こんな記事書いたのはたぶん先日アーサー・ビナードさんの記事を読んだからだ。
 

 

www.youtube.com
 
ビナード氏曰く。これはなるほどの解釈。
www.nippon.com
 

「『やまなし』が、プラトンの寓話をモチーフにしていると誰も指摘したことはないけれど、間違いないと僕には思えます。賢治が独自の視点で、この寓話に新たな息吹を与え、日本語の普遍的な作品に昇華させたのです」

 

ビナード・山村版「やまなし」の特徴は、まず冒頭にある。ビナードさんによれば、他の英訳版では、幻燈の部分を本筋とは関係がないからと省略することもあるそうだ。だが本作では、幻燈に見入る2人の少年が描かれる。どことなくカニの兄弟に似ている。幻燈に映し出される水中のカニたちと人間の少年たちが、「同じ次元」にいると感じさせる趣向だ。

 

*1:もっと正確に言うとカナ文字で、コノサカヅキヲ受ケテクレ ドウゾナミナミツガシテオクレ ハナニアラシノタトへモアルゾ 「サヨナラ」ダケガ人生ダ