膨らまない話。

Tyurico's blog

落合恵子の翻訳の態度が根本的に間違っていることが問題なのであって、誤訳が多いなんてことを問題にしているのではない。

こことは別のブログで、落合恵子の『海からの贈りもの』の翻訳を批判するためだけのブログを作ってから数年が経ち、近頃、落合の翻訳について私と同様の指摘をされている方を見つけた。
 
GIFT FROM THE SEA 海からの贈りもの 2013・11・08 - 市居嗣治の「今日のお気に入り」 - My favourite things
 
以下に文章を少し引用させていただきます。

アン・モロウ・リンドバーグ女史(1906-2001)の著作 "GIFT FROM THE SEA" の邦訳としては、すでに吉田健一氏の翻訳本(昭和42年、新潮文庫)があり、名訳としての評価が定着している。
 吉田氏の、原文に従って一語一語忠実に翻訳する、抑制のきいた逐語訳に慣れ親しんだ読者にとっては、落合恵子さんの新訳には、「飛訳」というか、原書の用語は違うのではないか、と思わせる部分がいくつもある。上に引いた冒頭の章にもそれはある。 読後感として、リンドバーグ女史ならぬ、落合さんの著作を読んだような気分にさせられるのである。なぜか。
 「翻訳」というより「脚色」とでもいうべき箇所がいくつもあるからである。落合さんは自身の感想を、原書の随所に書き込みつつ翻訳をすすめたという。そうした自身の備忘のための感想(書き込み)の部分が訳文にまぎれこんでしまったのではないかと推察されるのである。
 「翻訳」に「誤訳」はつきものだが、原文を離れた「我田引水」的な「意訳」、「脚色」の度が過ぎると、「贔屓の引き倒し」というもので、そうした「脚色」や原書にはない文章の挿入が意図してなされたとすれば、残念なことである。
 
(中略)
 
 翻訳を専業とされていない落合さんの個人的な好みや自己主張の強さがもろに出てしまい、「翻訳」を逸脱し、「創作」に走ってしまったと思われる。
 
 「翻訳」と銘打った書物としては、どう贔屓めにみても、問題があると言わざるを得ず、改訂せず放置する版元の料簡が知れない。落合さんの、そして版元の、「欲」のなせる業である。
 

 
 
落合訳で洗礼を受けてしまった人達はもう致し方もないが、やはり吉田健一訳の『海からの贈物』に親しんだ人が落合の訳を読めば、あれ、なんだこれは?となることと思う。そしてそれは気のせいではない。
あれは落合恵子訳の『海からの贈りもの』ではなく、『落合恵子の海からの贈りもの』とでも呼ぶべきものであって、落合スタイルでアレンジしてみました、といった具合の偽物だ。
 
 
さてこちらの方の記事とは違って、「落合恵子さんが訳した『海からの贈りもの』には誤訳が多いという指摘を読んだ」、というような曖昧な表現のしかたで言及しているものも見るようになった。
 
自分が感銘を受けた作品が他人から批判されていれば当然気分は良くないし、自分の感動体験を否定したくはないから批判は認めたくない、認めるにしてもせめて限定的にしたい。それで、誤訳もあるようだが翻訳全体を否定はしないとか擁護するもっともらしいことを書くのだろう。
 
そういうのはこっちの批判が理解できなくてそう書いているのか、それともわかっているくせに問題を誤魔化すためにそう書いているのか。念を押して言うが、私は単なる誤訳など重要な問題とはしていない。
そういう連中に向けて言うが、とにかくまず批判をちゃんと読め。私は「落合がしたことは誤訳なんて程度のものではない。承知の上で他人の著作に平然とデタラメを書き入れる落合恵子は翻訳の態度が根本的に間違っている」と批判しているのだ。
しかもそれが自分の長年の愛読書とまで言っている本に対しての行為だ。もっと率直に言えば、私は訳者落合恵子の醜い行為によって美しい本が歪められたことに強い怒りを覚えている。単なる誤訳の指摘はことのついでだ。
落合の翻訳を擁護する無責任な連中は具体的な異論は何一つ書かないくせに、「意訳を通り越して誤訳さえあるとの指摘」だの「辞書どおりに訳したものが本当に著者の書いたものを「正確に」伝えるんだろうか。」だの「翻訳について、フェミニスト的な意訳だと偏見で見る人もいるけれど。」だのと、もっともらしい口調で体裁のいいことばかり書く。
誰がそんな些細なことの追求に終始しているものか。納得がいかず不満があるのならば曖昧な書き方で誤魔化したりせずに具体的に例を示した上で述べてもらいたい。「瑞々しい感性で紡ぎ出された落合恵子さんの翻訳 」だとかえらく褒めたものだが全く悪い冗談だ。「瑞々しい感性」だと?「図々しい神経」の間違いではないのか。
 
この際はっきり言っておく。
ろくに読みもしないで「意訳や誤訳が多いという批判もあるが」みたいな体裁の良いことを書くな。あの訳文を意訳だ誤訳だなんて言って落合を擁護するのは問題を誤魔化そうとしているに過ぎない。落合恵子は意図的に原文を歪めている、というのがこちらの批判の根幹だ。落合の訳文には間違いがあるなどという批判ではなく、落合は翻訳の態度がもう根本的に間違っていると批判しているのだ。

 
意訳というのは一語一語が合うわけではないが文章としては意味が合っている翻訳のことだ。誤訳というのは気が付かずに間違えてしまった翻訳のことだ。そもそも承知の上で意図的にやらかしたことを「誤り」とは言わない。

それでも『 落合恵子の海からの贈りもの 』が大好きで大切だと言うのであれば別にそれは構わないが、落合のやったことを意訳だ誤訳だなんて言って問題を誤魔化して語ることは止めてもらいたい。
これはもうブログで何度も繰り返し強調しているポイントなので、言及するならせめてその程度は読み取った上で言及できないものだろうか。それすらもできないのならば口をつぐんでお気に入りの落合訳を一心に耽読していてほしい。
 

落合のあれは良く言ってせいぜい、落合が一人悦に入っている「のど自慢」であって、著者の言葉にまじめに向き合った仕事ではない。訳者あとがきではこの本をさも大事にしているかのような殊勝なことを語っている落合だが、裏で実際にやっていることは全く違っている。
表で言う事と裏でする事が裏腹な人間を「嘘つき」という。

あの翻訳ぶりに気づくまで落合に対して思うところは別になかったが、もう落合の発した言葉とあれば眉に唾をつけるようになった。
他人の言葉を尊重することができない人間、言行の一致しない人間の言葉などどうして信じられようか。



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