膨らまない話。

Tyurico's blog

アウトサイダー・アートの本質はそこではないと思う

アウトサイダー・アートという言葉の「アウトサイダー」というのは、「一般社会の外側の人たち」という意味ではなく、「美術の世界や美術の制度の外側の人たち」という意味なんだろう。
 
しかしまあそうは言っても、アウトサイダー・アートの人たちは実際ぶっ飛んでるというかはみ出してるというか多くの人がそういう感じなものだから、やっぱり「一般社会の外側の人たち」によるアートなんじゃないのかと思ってしまうのだが、しかし考えてみれば美術史的に認められた著名な画家の中にだって「一般社会の外側」としか思えないような人が見られるわけであって、だったらそういう認められた画家とアウトサイダー・アート人とはどこが違うのだろうかという問いが自ずと浮かんでくる。*1 アウトサイダー・アートとは
 
さてアウトサイダー・アートの定義のようなものを調べると、どれも必ず「専門的な美術教育を受けていない」というような説明が第一に出てくる。
しかしこれもまた考えてみれば、「専門的な美術教育を受けていないのだが美術史にも名を残している認められた画家」というのも特に珍しい存在ではない。彼らは「専門的な美術教育を受けていない」のだが、アウトサイダー・アートという括りで語られることはない。なので「専門的な美術教育を受けていない」というのはアウトサイダー・アートの本質を捉えた説明であるとは言えない。


しかしながらまたこの「専門的な美術教育を受けていない」という点で両者を比較してみると、やはりそこには大きな違いが見られるということに気がついた。
「専門的な美術教育を受けておらず、それでいて美術史にも名を残している画家」というような人たちは、独学ではあっても他の画家たちの作品に学び、そこから影響を受けているし、尊敬している過去の画家とかがいてその作品を見に出かけたり模写したりしている。
もっとはっきり言うなら、そもそも彼らが絵を描きたいと思ったのは他の誰かの作品を見て強い感銘を受けたからで、「素晴らしい、ああいうものを自分も生み出したい」という希求が根底にあるのだと言えるだろう。
専門的な美術教育の経験は無くとも彼らはやはり過去からつながる美術の流れの中に身を置いているのであって、そういう意味で(後に認められてインサイダーになったということではなく)彼らは最初からインサイダーであったのだと言える。
 
それに対して、アウトサイダー・アートの人たちの作品はどこまでも彼らの個人的な必要や衝迫から生み出されたものであり、他の誰かの作品に出会い心を打たれた体験、そしてそれに近づきたいという希求はそこに見出すことができない。*2
彼らは既存の作品や潮流から影響を受けていない、というのは不正確な言い方でしかなく、そもそも彼らは他人の作品には興味が無く自分の作品としか向き合うことがないと言ったほうが正確だろう。
*3

またアウトサイダー・アートの説明には「名声を求めていない」というのも見られるのだが、名声を求めないどころか彼らには自分の作品を見てもらいたいという欲求すらも無いように思える。*4
これを純粋と言うなら極端なまでに純粋である。
彼らは全く孤絶してそれぞれ屹立しているのだ。
そして他の作家・他の作品への関心というものが無くそこから受けた影響は無いに等しいので、自然出来上がったものは誰も見たことのないような独特なものとなる。
それは確かに既存の美術作品には見られないものであり、時に衝撃的とも言える力を持つ。


アウトサイダー・アートについての、「専門的な美術教育を受けていない」、「既存の作品や潮流から影響を受けていない」、というような当り障りのない腰の引けた説明は表面的で全く不十分なものであり、そういうことではなく、
「どこまでも個人的な必要や衝迫から生み出されたものであり」、「他の作家、他の作品への共感や感銘や関心というものがほとんど見出せない」という極端な自己完結性とも言える特殊さがアウトサイダー・アートの根本にあるのだと思う。*5 *6 *7
 
何にせよアウトサイダー・アートに私たちの中に出来上がっているものを突き崩すような強烈な何かがあることはとにかく間違いない。
しかし自分の率直な感想を言えば、全く関係なくそれぞれ独自に生み出されたものであるのに、どういうわけだか並べて一度に見ると類型的と言えるほど似通っている彼らの特徴的な作品 *8 を見ると、うわすげー何だこりゃ、と驚いて後ずさりはするのだが、ああいいな、素晴らしいなと思うことはまずない。*9
アール・ブリュット 
アウトサイダー アート
 
 
tyurico.hatenablog.com
 
 
 
アウトサイダー・アート』(光文社新書) 作者:服部正

アウトサイダー・アート (光文社新書)

アウトサイダー・アート (光文社新書)

 
アウトサイダー・アート入門』(幻冬舎新書) 作者: 椹木野衣 「一例を挙げれば、我流ということにアウトサイダー・アートの軸足を置くなら、私たちがふだん聞いているほぼすべてのポピュラー音楽は独学の産物であり、その意味では正統とされるアカデミックな音楽に対して、十分にアウトサイダー・アートの要件を満たしている。」
椹木さんはこう述べているようだがまあ無茶苦茶な論法という他はなく、ほとんどのミュージシャンはそれぞれ自分の敬愛する先達のミュージシャンがいるものでまず一人の音楽ファンとして出発しているという点を見ていない。ポピュラー音楽とアウトサイダー・アートを同列に論じるなどというのは全く馬鹿げた話だ。 
椹木さんって音楽評論からスタートしたって聞いたことがあるんだが記憶違いだったか。
いや、評論はやるし流行りの知識も多いんだけど実はたいして音楽好きでもないって類いの人間もいるんだろう。
 
 
ミュージシャンの根っこは一人の音楽ファンだ。
tyurico.hatenablog.com
 
 

*1:アウトサイダー・アートというのは、自分のやっていることはアートだという自覚の無い人によって作られる物なんだろうなと思うので、じゃあ彼らをアウトサイダー・アーティストと呼ぶのもどうかと考えて 「アウトサイダー・アートの人」 というまわりくどい表現になってしまった。

*2:美術評論家椹木野衣さんは 「一例を挙げれば、我流ということにアウトサイダー・アートの軸足を置くなら、私たちがふだん聞いているほぼすべてのポピュラー音楽は独学の産物であり、その意味では正統とされるアカデミックな音楽に対して、十分にアウトサイダー・アートの要件を満たしている。」 と述べているようだがこれは全く無茶苦茶な論法という他はなく、ほとんどのミュージシャンはそれぞれ自分の敬愛する先達のミュージシャンがいるものであってまず一人の音楽ファンとして出発しているという点を見ていない。ポピュラー音楽とアウトサイダーアートを同列に論じるなどというのは意味の無いことだ。椹木さんの 『アウトサイダー・アート入門』 から。

*3:たぶん、他人の作品によっては満たされることがないのだ。

*4:2016年11月2日時点のウィキペディアの記事はこう記している。 「アウトサイダー・アート(英: outsider art)とは、特に芸術の伝統的な訓練を受けておらず、名声を目指すでもなく、既成の芸術の流派や傾向・モードに一切とらわれることなく自然に表現した作品のことをいう。」

*5:アウトサイダー・アートって、 「特殊なんかじゃないよ/いや特殊なんだよ」 っていう面倒な位置づけの中にあると思う。 「彼らは私たちと違う特殊な存在じゃないよ、でも並みのアートなんかじゃないんだよ」 とか。

*6:というわけで私は、アウトサイダー・アートとは 「他人の作品に興味を持つということがない人間がひたすら自分のためだけに作り上げた作品」 であると考えている。

*7:アウトサイダー・アート」と言うが、彼らはひたすら自分自身のインサイドだけを凝視しているように思える。また、何物にもとらわれない表現、というように言われることもあるが、あれは「本人にとってのみ意味を持つ何事か」にとらわれ続けているが故の表現だと思う。

*8:ある時ふとグーグルの画像検索で並べて一度に見たら、なぜどれも皆ああいう感じのものばかりなんだろうとその強烈なパターンにびっくりした。本当にああいう感じのばっかり。あるいは、評価して取り上げる側が基本ああいう感じのものにばかり驚いて感心した結果ということなのだろうか。

*9:心を和ます、心を騒がす、といったらアウトサイダー・アートというのはまずほとんど「心を騒がす」の方だろう。不穏な力。