膨らまない話。

Tyurico's blog

ピカソの「ゲルニカ」ってなぜああいう描き方なのかという違和感とか困惑について

 
以下の文章は、なぜ私は「ゲルニカ」に何も感じることがないのかという違和感を明らかにする目的で時間をおいて少しずつ書き綴っていったためグダグダしてますが、言ってることは結局この三つです。
① あらためて考えてみても結局私はピカソの「ゲルニカ」に感じるものがない
②「ゲルニカ」にはゲルニカの惨状は描かれていない
③「ゲルニカ」はもはや有無を言わさぬ権威のようなもので感性への暴力みたいに感じられて嫌だ

 

ピカソの「ゲルニカ」という絵はなんでああいう抽象的というのか非写実の描き方なんだろう、というのが長らく引っ掛かっている。

まあそれは、まずあの時のピカソのスタイルだからなんだろうし、だいたい自分の眼で爆撃の惨状を見たわけではないから、それをあたかも見てきたかのように写実的に描くことはやろうとしてもそもそも出来ないということもある。
 
正しく言えば「ゲルニカ」は抽象絵画というものではない。
しかしこの絵は「具体性や固有性を取り去った後に現れてくるもの」という意味において抽象であると言える。

この「ゲルニカ」という絵には具体的、個別的なものは何一つ描かれていない。
あの時ゲルニカというスペインの一地方にごく普通に暮らしていた人たち、無差別爆撃によって理不尽に命を奪われたそれぞれの顔だちと名前を持った個々の具体的な人々は最初から捨象されているのであり、この絵にある具体的なものはただタイトルの「ゲルニカ」という固有名詞だけだ。そしてその絵の中には「ゲルニカ」を示すものは何一つとして描かれていない。
いや、ここに描かれているのは抽象ですらなくむしろ概念に近いと言った方がいいのではないか。「戦争の暴力によって踏みにじられる命」というような。 

「個人の固有性と具体性が剥ぎ取られるのが戦争という暴力なのであってだからこそピカソはこのような表現を~」、というような考え方も可能だとは思うが、だとしたらそれはもう絵というより理念や理屈に類するものだ。
理念や理屈は芸術ではない。

私がピカソの「ゲルニカ」に困惑しか感じることがないのはこういうことかと思う。
 
でもまあそもそもの話、どんな世評の高い芸術作品だろうと強いて感動したり努めて神妙な気持ちになったりしてたらそれこそ不健全というものでそんな必要なんか少しもないんだし。

それにしても、まっさらな気持ちで見ることはもう誰もできないような絵というのも考えてみれば厄介な存在だ。*1
もしこの絵を修学旅行で見て感想文を書くように言われたらって考えてみたら嫌な気持ちになった。もう「強く心を打たれた」とか言わないといけない作品になっちゃってるわけだから。
もはや「感動」を無言で強いるある意味「踏み絵」のような作品というか、「戦争反対」とか「人道性」っていうのが別注文できないセットメニューになってるというか。
なんか不純なんだよな。意味過剰で。
 
思うに、あの絵が持つ力というものは無差別爆撃の非道を知ったピカソの怒り、フランコの反乱軍とナチスドイツに対する怒りによるのであって、ゲルニカの惨状の描写によるのではない。
あの絵にはゲルニカの惨状というものは何一つとして描かれていない。そこは間違いない。
それで私は困惑するのだと思う。この絵はいったい何を描いてるのかと。
 
ただ実物本物を目にしたら考えが変わるということもあるかもしれないけど、なにせ見たいと思ったことがないのだからこれはもう仕方がない。

 

 
 
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*1:ゲルニカ」=「反戦」、「ゲルニカ」=「反ファシズム」みたいな図式が出来上がってるからまずそれでこの絵に感動できないとか言うのには勇気がいる。それから「はいはい敢えてそういう少数派の感性を気取りたいんでしょ」みたいな冷笑もある。だけど「人類みなこの絵で感動しなければならない」ってのはそれがもう暴力ではないのかな。有無を言わさず感動を強いる一種の暴力。でもそんな一律のアートとか鑑賞体験ってそれこそ不健全でしょ。この絵に別に感じるものがなくたっていいはず。また鑑賞力や感性の低さでもないと思うよ。この注をここまで書いてああそうかと思ったけど、逆にこの絵画が感性への権威や暴力に近いものになってしまってる状態は何なのっていう違和感だ。そういうことだ。