膨らまない話。

Tyurico's blog

ピカソはなぜマラガ−アルメリア道の虐殺を描かなかったのか①

 
マラガってのはピカソの生まれ故郷。
そのマラガの住民が何千人も虐殺される事件が起きていたのだという。それがゲルニカ爆撃の2ヶ月前のことだ。
この記事ではじめて知った。
otraspain.com

第二共和政政府(左派)は、1937年5月に開催されるパリ万国博覧会のスペイン館にてフランコ率いる右派の横暴を世界に知らしめ国際的支援を得ようと考えます。

そこで、当時影響力のあったスペイン人芸術家たちに展示作品の制作を依頼します。

依頼を引き受けたものの、当時のピカソは最初の妻との離婚など複数の問題を抱えていて、作品制作に集中できる状態ではありませんでした。

1937年4月26日、博覧会開催のちょうど1か月前にドイツ軍がゲルニカを襲撃します。

襲撃事件のニュースに心を動かされたピカソゲルニカの制作にとりかかり、博覧会がはじまって約2週間後の6月初旬にゲルニカがスペイン館に展示されました。

 
ゲルニカ』は万博に展示するための作品として描かれたもの、ひとつ何か描いてほしいという依頼でしかしピカソは当初なかなか気が乗らずという状態だった、という制作の経緯は大まかではあるが私も知っていた。
それで私は、ピカソって強烈にエゴイスティックな人間だったと見ているから、ゲルニカの爆撃を知って「これはタイムリーでセンセーショナルなテーマが得られたぞ」くらいは内心密かに思ったんじゃないの、まあそれくらいの打算的な考えが頭を過っても別に意外でもないなと思っていた。でも勘繰りに過ぎないからなと思って以前の『ゲルニカ』についての記事ではそれを書かなかったけど。

 
さて、それで驚いたのがこの記述。

ゲルニカ襲撃の2か月前の1937年2月8日、フランコ軍はピカソの出身地マラガを攻め落とし、戦火を逃れて人民戦線支配下アルメリアへ移動する3,000~5,000人の住民を虐殺しました。(La Desbandaーラ・デスバンダ)
 
マラガの虐殺事件の2か月後に起こったゲルニカ襲撃を描いたピカソですが、制作中に故郷の悲劇を想ったはずだと、ゲルニカとラ・デスバンダの関連性を指摘する専門家もいます。(情報元: SUR.es)

 
これを読んだら勘繰りではないかもと思うようになった。
要するにとにかくゲルニカ爆撃の2か月前にフランコ軍による民間人虐殺があったってことだよね。それもよりによってピカソの故郷のマラガで。これは全く初耳の話だ。で、記事によるとピカソはそれも知っていたと。
でもその「故郷の悲劇」については別段ピカソの心は動かなかったってことに思えるんだが。結局マラガの虐殺は取り上げないでゲルニカの爆撃を描いたってことだよね。それって変じゃないか。

短絡的に結論に至ってはいけないけど、少なくとも勘繰りかと思っていたものは疑念へと変わった。
確認のためもうちょっと調べよう。
 

ウィキペディアにはまだ日本語の記事がなかった。
en.m.wikipedia.org
英文の記述を読むと、海沿いの道路を歩いてアルメリアへと逃げていく人々に三隻の軍艦が砲撃を行い、3,000から5,000人の民間人が殺害されたと書いてある。
 

「マラガ アルメリア 虐殺」で検索して探してみたのだが、日本語で出て来るものは今のところ無いに等しい。アルメリアではなくアルメニア人の虐殺が出てくる。
www.google.com
 
en.wikipedia.org
ゲルニカ爆撃の方も調べてみたが時系列は間違いない。
犠牲者の数はゲルニカの爆撃よりもマラガの虐殺の方がはるかに多いんだが。こんな話、全然知らなかったよ。
 
en.wikipedia.org
このウィキペディアの『ゲルニカ』の解説記事を読んでも「マラガの虐殺」については何も言及がない。なんでだ。
万博展示の絵画を依頼されたのが1937年1月。2月に「マラガの虐殺」が起きる。ゲルニカが爆撃されるのはそれから2ヶ月以上後のことだ。
私のずっと以前の『ゲルニカ』理解は「ゲルニカへの無差別爆撃に激しく怒ったピカソが黙ってはおられず絵筆を取った」っていう素朴な図式だった。
でも、そもそも共和国政府の依頼があっての作品だったこと、共和国政府には内戦下でのプロパガンダ的な狙いもあったということ、そしてなかなか画題が決まらないでいる時にゲルニカの無差別爆撃が起きて絵のテーマに選ばれたということ、しかしさらに先立ってマラガの民間人虐殺があったということなど色々あるわけだ。
ゲルニカへの無差別爆撃に憤ったピカソが絵筆を取った」というのはすごく単純化されたというか、通俗的とも言えるストーリーだとわかった。
 

以下は New York Times の記事だということだが、とにかくさほど日を置かず報道されてるわけだな。1937年2月17日の記事。何年も後に虐殺が明らかになったという話ではない。
ピカソは当時パリに暮らしていた。パリはそれこそ世界中の情報が届く街だろう。マラガの虐殺をピカソは知らなかったという方が考えにくい。

Malaga refugees reported bombed とある。
www.loc.gov
それに考えてみれば、ピカソに絵を依頼した第二共和政政府がそもそも黙ってないと思うんだよな。

 
ピカソは後にこんな絵も描いていた。『朝鮮の虐殺』1951年
en.wikipedia.org

Massacre in Korea is the third in a series of anti-war paintings created by Picasso. It was preceded by the monumental Guernica, painted in 1937, and The Charnel House, painted from 1944 to 1945.

『朝鮮の虐殺』はピカソによる反戦画シリーズの三作目とのこと。でもマラガのことは結局描かなかったんだよな。そこがわからん。
 

ゲルニカ物語 ピカソと現代史』 岩波新書

イタリア部隊の最初の成果は、1937年2月、スペイン本土の南端にあるマラガをおとしたことであった。この時にはイタリアの艦隊が、スペインの軍艦であるように偽装しながら町を砲撃した。九大隊からなるイタリア黒シャツ隊の機械化部隊が攻撃に加わった。マラガはピカソの生地であり、ファシストの象徴である黒シャツを着た部隊に故郷が蹂躙されるニュースは、ピカソを深く悲しませた。 p.55

何か得るものがあるかとこの本を読んでみたが記述はこれだけ。マラガの陥落のことは書かれているが、マラガ−アルメリア道の虐殺については触れられていない。
「故郷が蹂躙されるニュースは、ピカソを深く悲しませた。」こういう何の出典もない想像による記述はもはや信用することはできない。
 

最後に、冒頭に上げた記事「ピカソゲルニカの意味を易しく解説!美術館での鑑賞方法は?」にリンクが貼られているスペイン語の記事をMicrosoftの自動翻訳にかけてみたのでコピーして貼っておく。2017年2月8日の記事。
意味の取れない箇所もあるが肝心なところはつかめる。Oportunismo、ピカソ日和見主義だと書いてあるじゃないか。英語なら opportunism だ。
冒頭の記事は「マラガの虐殺事件の2か月後に起こったゲルニカ襲撃を描いたピカソですが、制作中に故郷の悲劇を想ったはずだと、ゲルニカとラ・デスバンダの関連性を指摘する専門家もいます。」って書いているが、どうも元記事の意味するところはまるで違うな。かなり批判的だ。
www.diariosur.es

ピカソは『ゲルニカ』を描[くときにマラガの悲劇を思い浮かべる」
美術評論家のアラン・モローは、バルセロナで、アルメリア街道からの脱出がマラガ出身の天才の偉大なイコンに与えた影響を主張しています

ピカソゲルニカを描いたとき、マラガの悲劇を考えていたことは間違いありません」。アラン・モローは通常、茂みの周りを叩きません。また、1937年2月8日、バルセロナのレイアール・サークル・アーティスティックで「マラガの陥落」という講演を行う前にも、彼はそうしなかった。したがって、専門家であり美術評論家でもある彼は、昨日80年前のマラガ-アルメリア高速道路からの脱出を、1937年のパリ万国博覧会のスペイン館のために共和国政府から委託されたマラガ出身の偉大なアイコンと結びつけました。

昨日、モローは、ラ・デスバンダとゲルニカのつながりの偉大な擁護者の一人であるジョセフィーナ・アリックスのような研究者の道を歩きました。「彼女はいくつかの出版物で、ピカソは自分自身をやる気にさせ、主題を引き出すという点で非常に遅いことを強調しています。しかし、ゲルニカが爆撃されると、彼は非常に迅速に行動し、数日後に絵を描き始めます。彼は、ピカソゲルニカを描いたとき、マラガの悲劇を非常に念頭に置いていたことを示唆しています。そして、ピカソゲルニカを描いたとき、マラガの悲劇を念頭に置いていたことは間違いありません」とモローは言いました。

美術評論家は、「3月5日、つまり、マラガにとって悲劇的な日である2月8日からゲルニカ爆撃が起こった4月26日までの日付」の準備スケッチの存在で彼の論文を支持しました。モローの意見では、この作品は、4月5日に80周年を記念してピカソのアイコンの周りの野心的なモンタージュを初公開するソフィア王妃芸術センターに展示されている絵画のマラガの優勢の軌跡をたどります。

日和見主義

しかし、それなら、なぜピカソは、同胞が苦しんだもっと血なまぐさい出来事を選ばず、わずか2ヶ月後に起こった出来事を選ばなかったのでしょうか?モローが昨日、作家で政治家のアンドレ・マルローのような友人によって擁護されたように、南部で何が起こっているかを聞いたとき、なぜ彼は北に目を向けたのだろうか?

モローは説明を探すことを躊躇しない:「ピカソ日和見主義からゲルニカを選んだことは非常に明白です。(...)ゲルニカの破壊は世界中に大々的に報道された。犠牲者の視点から見ると、残高は124だったようですが、建物の破壊は壮観でした。ゲルニカは最初の大きな世界的ニュースになりました。ピカソ日和見主義から『ゲルニカ』というタイトルを付けたに違いない」

そして、美術評論家は中途半端な手段で締めくくります:「私たちは酔っています。ゲルニカは芸術のコカコーラのようです。それはすべてをカバーしています。道を開くどころか、より多くのもの、より多くのドラマ、より多くの物語を見ることを妨げてきた一種のアイコンだったのです」

 
同じ文章をGoogleで翻訳したもの。ちょっと違うが大体同じ。

ピカソは『ゲルニカ』を描きながらマラガの悲劇について考える」
バルセロナでは、美術評論家のアラン・モローが、アルメリア高速道路からの流出がマラガの天才の偉大な象徴に与えた影響を主張した
アントニオ・ハビエル・ロペス

2017年2月8日水曜日、00:23


ピカソゲルニカを描くときにマラガの悲劇について考えていることは間違いありません。」アラン・モローは普段はあまり暴言を吐かない。昨日、1937 年 2 月 8 日にバルセロナのレイアル サークル アーティスティックでカンファレンス「マラガの陥落」を提案する前にも、彼はそうしませんでした。このように、専門家であり美術評論家でもある同氏は、つい昨日開通80周年を迎えたマラガ-アルメリア高速道路からの流出と、パリ国際博覧会のスペイン館のために共和国政府から委託されたマ​​ラガ先住民の偉大な象徴とを結び付けた。その時は1937年。

昨日モローは、ラ・デスバンダとゲルニカの間のつながりの偉大な擁護者の一人であるホセフィーナ・アリックスのような研究者の道を歩きました。 「彼女はいくつかの出版物で、ピカソは自分自身を動機づけ、テーマを引き出すのが非常に遅いが、ゲルニカが爆撃されたときは非常に迅速に行動し、数日後に絵を描き始めたことを強調しています。それは、ピカソゲルニカを制作したとき、マラガの悲劇を非常に念頭に置いていたことを示唆しています。そして、ピカソゲルニカを描いたとき、マラガの悲劇を念頭に置いていたのは疑いの余地がないと思います」とモローは語った。

モローの意見では、この美術評論家は「3月5日、つまりマラガの悲劇的な日である2月8日からゲルニカ爆撃が起こった4月26日までの間」の日付が記された準備スケッチの存在によって彼の論文を支持した。ソフィア王妃芸術センターに展示されているこの絵画のマラガの優位性は、4月5日に創立80周年を記念してピカソのアイコンをめぐる野心的なモンタージュ作品として初公開される予定だ。

ご都合主義

しかし、それではなぜピカソは同胞が受けたもっと血なまぐさい事件を選ばず、わずか2か月後に起こった事件を選んだのでしょうか?昨日モローが作家で政治家のアンドレ・マルローなどの友人から擁護したように、南部で何が起きているかを聞いたとき、なぜ彼は北に目を向けたのだろうか?

モローは説明を求めて躊躇しません。「ピカソがご都合主義からゲルニカを選んだのは明らかです。 (...) ゲルニカの破壊は世界中に広がりました。人間の犠牲者の観点から見ると犠牲者は124名だったようですが、建物の破壊は壮絶でした。ゲルニカは最初の世界的な大きなニュースとなった。 「きっとピカソはご都合主義から自分の絵に『ゲルニカ』というタイトルを付けたのでしょう。」

そして美術評論家は中途半端な手段で締めくくる。「我々は酔っている。どうやらゲルニカは芸術のコカ・コーラのようだ。」それはすべてをカバーします。それは道を開くどころか、私たちがより多くのもの、より多くのドラマ、より多くの物語を見ることを妨げる一種の象徴となってきました。

 
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