膨らまない話。

Tyurico's blog

橋本治さんのすごさって、そんなつまらない点に在るのかなと納得が行かない

 

 橋本さんはものごとを説明するのが本当に上手である。橋本治って、要するにどういうところがすごいんですか?」と没後に橋本さんのことをあまりよく知らない人たちから何度か質問された。その時に「天才的に説明が上手い人です」と言ったら、だいたいの人は「はあ、そうですか」と納得してくれた。編み物の本も、三島由紀夫小林秀雄についての評論も、浄瑠璃の本でも、橋本さんのスタンスは一貫して揺るがない。それは「よくわかっていない人にわからせてあげる」ということである。橋本さんがあれほど大量にものを書き続けたのは「どうして、世間のもの知りたちの説明は素人に対してあんなに不親切なんだろう」という苛立ちがあったからだと思う。自分にうまく説明できることがあれば、身を削っても、自分で説明するということを橋本さんは自分の「ミッション」として引き受けたのである。
 
 「説明家橋本治」の真骨頂――橋本治『もう少し浄瑠璃を読もう』[レビュアー] 内田樹(思想家)

 

内田さんはこう言ってるんだが、いやそうだろうか?なんだかいろいろと首を傾げてしまう文章だ。
「はあ、そうですか」って言い方、それって納得だろうか。どう考えても納得してるとは思えない口ぶりなんだけどな。得心行ってないよな。「はあ」って気が入ってないときの返事だよな。たぶん、それ以上聞くのを止しただけだよな。
「納得してくれた」ってのも「仕方なく」とか「あきらめた」ってニュアンスを感じるんだが。

それに「説明が上手い」と言うんだから、「自分には既によく分かってることをあらためて他人に分かりやすく説明してる」ということだよな。
でも橋本さんの真骨頂ってそれこそ全く逆で、誰に頼まれたわけでもないのに、よくわからないことをああでもないこうでもないと掘り下げあるいはひっくり返し、どこまでも考え続けていくところだと思うんだが。
「説明が上手い」って、そんなお行儀の良いというか収まりが良いというか、つまらないような点ではないと思うんだが。そんなの退屈で少しも驚きがない。
 
前々から疑問に思っているが内田さんの橋本さんの持ち上げ方はどうもよくわからない。それこそ贔屓の引き倒しの感がある。
「はあ、そうですか」の人たちが橋本さんに対する興味をなくしてなければいいんだけど。
言っちゃ悪いけど内田さんのこれ、橋本さん殺しだよな。内田さんはなんか「頭でっかち」になっちゃった気がする。
 
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tyurico.hatenablog.com
  

だいたい橋本さんの本ってよく分からないタイトルの本が多くて、編み物だとか三島由紀夫だとか浄瑠璃だとかそういうタイトルから何について語ってるかすぐに察しがつく本の方がむしろ少ないんじゃないのか。
「自分には分かってることを他人に分かりやすく説明する」というのは定まってる輪郭線を上からまたなぞるようなものだと思う。
 これは「この本、橋本さんが解説書いているの⁉」というのが理由で買った本だが良かった。
「この度、学生時代からの憧れの先輩橋本治氏に解説を頂いたことは、著者の何よりの喜びとするところである。」
 
jmiyaza.hatenablog.com

 前に「橋本治内田樹」という妙な本があって、橋本氏の前で内田氏がただ、じたばたしているというような印象の本であった。そうなってしまうのは内田氏が普通の本を書くひとであるのに対して、橋本氏が本来なら絶対に本など書かないはずのひとであるからである(それにもかかわらずとんでもない量の本を書き続けているが)。
 要するに内田氏はインテリであるのに対して、橋本氏はインテリではない。知識人業界のなかでは内田氏はかなりの変わり者であるので、正統的知識人の硬直を斬るときには技がさえる。しかしそうではあってもやはり知識人ではあって、はしっこにいるにしても知識人集団の中にはいる。しかし橋本氏は知識人集団の外にいる。あっけらかんと知識人の常識を無視する。
 橋本氏がいい続けてきたことは「知識人は嫌いだ!」「俺には知識人の言っていることがさっぱり解らない!」だと思うのだけれども、内田氏は知識人の言っていることはちゃんとわかってしまうひとなのである。知識人社会の外にでることはない。なにしろ大学教授である。橋本治が大学教授になった姿など想像もできない。アカデミーの中にいるひととそうでない人の違いである。

「要するに内田氏はインテリであるのに対して、橋本氏はインテリではない。知識人業界のなかでは内田氏はかなりの変わり者であるので、正統的知識人の硬直を斬るときには技がさえる。」
アマゾンのレビューで「橋本治内田樹は水と油」てのがあるけどやはりそうだと思う。
 

 橋本氏は体の指示を絶対のものとする。それに全幅の信頼をおいている。橋本氏の体は「近代」のものすべてを変と感じる。自分の中に二人の自分がいる、いうのも「近代」の産物なのであるから、「そんなのやめればいいじゃん!」である。くどくど悩むのが知識人の証と思っているひとは、そんなことをいわれたら立つ瀬がない。敬して遠ざけるに若くはないということになる。
 この「解説」で内田氏は、「「三島由紀夫」とはなにものだったのか」と「小林秀雄の恵み」を、それぞれ三島由紀夫についての説明、小林秀雄小林秀雄自身に対して説明しようとしていたことを感知することの試みであるとする。しかし、「「三島由紀夫」とはなにものだったのか」は「近代」の可哀想なインテリであった三島由紀夫に対する満腔の同情をこめた批判であるし(なんでそんなに自分にばかりこだわるの!)、「小林秀雄の恵み」は小林秀雄自身の「近代」からの脱出の試みを追体験しながら、日本の知識人を毒した「近代」というものを腑分けしていこうとした本だと思う。
 知識人はまず何かに毒される。そしてそこから脱出をそれぞれに試みる。まず罪を犯し、そこからの救済の道をさぐる、という構図である。それっておかしいのではないの? 罪なんて犯さないほうがいいに決まっているじゃないの、というのが橋本氏の(体の?)反応である。
 橋本氏が知識人社会の中で特異なのは、「お前もまた罪人(つみびと)だ!」といわれて、「え?、どうして?」と答えるようなひとだからである。橋本氏は「近代」に侵されていない。原罪を負っていない。近代の知識人ではなく、近世の職人なのである。批評家がどうあつかったらいいかとまどうのも無理はない。
 内田氏は「暁の寺」で三島由紀夫が展開する阿頼耶識についての滔々たる蘊蓄を、「その説明のあまりの巧みさは私にほとんど身体的愉悦をもたらした」としている。ここの部分は小室直樹氏も「日本人のための宗教原論」で絶賛していたところであるが、わたくしには何が何だかわからなかった。それは理屈のための理屈、理論のための理論としか思えなかった。頭で理解するのがやっとで、腑に落ちるなどということが絶対に生じない戯言であるとしか思えなかった。

「それは理屈のための理屈、理論のための理論としか思えなかった。頭で理解するのがやっとで、腑に落ちるなどということが絶対に生じない戯言であるとしか思えなかった。」
丁寧な物言いであるがかなり手厳しい。