膨らまない話。

Tyurico's blog

川平朝清さんが語った首里城のけっこう意外な話

朝の通勤時に車のラジオをつけたら興味深い話が聞こえてきたので帰ってから調べてみた。
声の主は川平朝清という方で、ジョン・カビラさん、川平慈英さんのお父さんだという。語りは率直にして明晰で92歳という年齢に驚いた。

川平家はかつて琉球王家に仕えていた家柄なんだそうで、当然話は先頃炎上焼失してしまった首里城のことになる。
 
どうも三宅アナウンサーは「沖縄の心、沖縄の象徴である首里城」っていう話にまとめたい感じだったが、川平さんが語った話はそれに必ずしも沿わないもので、それが興味深い。

川平氏
一番ショッキングだったのは、首里城の手前に「玉御殿(たまうどぅん)」と沖縄の言葉で言うんですが、いわゆる王陵があるんですね、王様たちを葬っている。その石造りのお墓の扉が開けられていて、中に入ると石造りのお棺、その上の大きな蓋が開けられて、王の白骨が中にまだそのまま残されているっていう、本来ならそういう所まで立ち入って見ることはできないんですけども、丁度そこで働いている人たちがいたので立ち入って見ることができました。
今から考えると末裔である私が、王様の遺骨を目の当たりしたっていうことは、ちょっと忘れられない経験ですね。

三宅アナ
沖縄の人にとって戦争により失われた首里城首里城というのはどういう存在だったんでしょう。
 
川平氏
私どもの両親、それから兄たちは大正の末期に台湾の方に移住してるんですね。大正の末期というと、首里城が壊れていくと言いますか、だんだんもう見る影もないような状況になってくるところを見ているんですね。そのときに鎌倉芳太郎という美術の先生、女子師範、一校女の先生をしておられた方が「これでは、」ということで、東京大学伊東忠太博士に、建築科(建築家?)の先生ですが、「これでいいのか」ということで、で急遽文部省から専門家を派遣して、「いやこれは保存すべきだ」ということで国宝に指定される。そういうことを聞いて私たちの両親は安心したというような気持ちで台湾に行ったと。

だから戦争で首里城は灰燼に帰したわけだが、実は既にその前から荒廃の一途で、内地の人が保存を最初に呼びかけていたということになる。
 

川平氏
いまある首里城琉球大学の構内(校内?)になるわけです。私が勤めておりましたアメリカ軍政府、民間情報教育部の作った日本語放送局も首里城の中にスタジオができるもんですから、首里城跡に勤めていたという状態でした。
ですから首里城は私たちにとっては、もう戦後は琉球大学というイメージしかなかったですね。
 
三宅アナ
それが再建された時は「あ、こういうものなんだ」っていう思いはありましたか。
 
川平氏
その前から首里城はこういうものだという写真は、白黒写真ですけれども、そういうものは見せられてましたから、いよいよ再建、という時には「あ、そうか」程度のもんだったですね。
 
三宅アナ
あっは、そうですか~、あ~。でも焼け落ちたことは大変なショックだったと。

 
12月25日までだが、らじるらじる。
プレーヤー | NHKラジオ らじる★らじる
 

アナウンサー時代の朝清さん。どえらい男前。

ウィキペディアには大した記述がないので、ご本人のインタビューを貼っておく。
www.nippon.com
 
tyurico.hatenablog.com