昨年出版され、間違いが多いという指摘が相次いでちょっと騒ぎにもなった池内紀さんの『ヒトラーの時代』をどんなものかと図書館から借りてみた。
それらの指摘は、ドイツの歴史に詳しくない私には当否がわからないような話がほとんどだったし、間違いが多いとしてそれはチェックできなかった中央公論の責任でもあるしな、とも思っていた。
しかし、カフカが恋人に宛てた書簡集まで訳しているのにその恋人が亡くなった強制収容所を間違えているというような指摘を読むと、さすがにそれは駄目じゃないのと思うようになった。
読んでみたら気になる記述はけっこうあって、ただそれは言われている指摘とは別の類いのものなのだが、私にとっては「池内さんは相変わらずだな」と思えるものだった。
「年頭所感や政局のおりおりに、荘重な音楽が流れ、ついで「ドイツ国民に対するドイツ政府の告諭」になった。どの家庭でも、この瞬間、いっせいに静けさが訪れた。
ラジオの声はとりも直さず「ナチス国家の表現」であり、ナチズムの精神、ナチス指導原理にかなうものだった。居間に据えた国民ラジオを取り巻いて、家族全員が威儀を正し、身じろぎせず、神の声を聴くようにして301型の声に耳を傾けた。
出典とか何も記されてないので、たぶんここの具体的な描写は池内さんの想像の産物でしかないと思う。「どの家庭でも」実際こんな風に聴いていたものだろうかと疑問に思ってしまった。
これらの文章から、「どの家庭でも」とか「いっせいに」とか「身じろぎせず、神の声を聴くように」といった不確かでしかし断定的な修飾を取り除くと、ごくわずかなものしか残らない。その程度の文章だ。こういう文章の形容とか修飾というのは範囲を狭めて精度を高めるために必要があって入れられるものだと思うのだがこれはそうではない。雰囲気や香り付けに過ぎない。
何か当時の人間が書き残したものの引用だというなら納得するし、そういうものこそ読みたいのだが。資料が無いところを文学者がそれっぽく想像で補完する歴史の記述というのはどうかと思う。というかはっきり言って良くないことだ。
見て来たようにそれらしく書く力は十分なのだが、権力や時勢に抗するには心許ない。こういう生半可なものはその時ひとたまりもなく蹴散らされてしまうのではないか。
本当のディテールは飛ばして如何様にでも上手いことそれらしい文章が書けてしまう文章上手というのは、悪く言えばどのようにでもごまかしがきくということでもあって、これはむしろ欠点だろうなと思った。いろんな表現や上手い言い回しを使える文章上手というのが逆に災いしている。自分の手際に自分が欺かれてしまっている。
いや、確かなディテールが得られないところで立ち止まることをせず上手いこと文章を拵えてしまうというのは欠点というよりも問題と言うべきか。
話を大きく広げてしまうが、文学ってこういうものじゃないと思うのだ。
池内さんなんてドイツ文学とかカフカとか、そういうのを代表してるような人だと思うんだが。
率直に言って文学と言われるようなものの頼りなさにがっかりしている。
「頼りなさ」と書いた。しかしまた、言葉という全く不確かで頼りないものに拠って立とうとするのが文学というものではないかと私は思っている。
こちらはその二年前の著作だがまだ新刊が出ている。
wired.jp
彼はこう述べています。『ペンの森を見通すために、私の方法によれば一枝で足りる』と。ひとつの動詞の使い方がひとりの人間を代表し、ひとつの形容詞が恐るべき犯罪の動かぬ証拠になり、なにげない新聞の見出しが、一時代の罪業を要約していることを、彼は誰よりも見抜いていたのです。
「ひとつの動詞の使い方がひとりの人間を代表し~」、なるほど確かに。