膨らまない話。

Tyurico's blog

一神教と傲慢さ

 
NHKの「世界はほしいモノにあふれている」でバルト三国を取り上げてて、リトアニアを見てたら思ったんだけど、キリスト教が入ってくる前の、自然や動物を敬い畏れる古来の文化というか精神が尚残ってるような印象を受けた。

ちょっと調べた限りだがやっぱりそんな感じあるな。キリスト教が国の宗教になったのも他より遅かったようだし。
 
一神教というのは唯一の神様を畏れるのみだから、他にもう畏るべきもの尊ぶべきものはなくなる。あとは全て取るに足らないもの、人間の好きにしていいものでしかない。
深き山も暗き森も何するものぞだ。
唯一の神だけに恭順。そういう傲慢さってあるよな。
 
一神教 傲慢 - Google 検索
 
多神教徒である日本人が世界で主張すべきこと――塩野七生 読者との対話3 | イベントレポート | Book Bang -ブックバン-

塩野 私は第一に宗教というものは基本的に「個人的なもの」だと思っています。ところが厄介なことに「みんなで祈ると気持ちよくなる」という性向もある。一神教はとくにその性質が強い。これがまず問題です。
 そして多神教一神教のちがいは「神の数のちがい」ではありません。カエサル家の守護神はヴェヌス、つまりビーナス。アウグストゥスの守護神はアポロン多神教だからといって、すべての神を愛する必要はありません。信じる神は一つでも構わないんです。それがローマの多神教です。ローマが版図を広げるに従って、ローマの街角にはカルタゴとかガリアとかの神様の像がゴロゴロ並ぶようになりました。ある民族を征服して、彼らもローマ人に同化してしまうと、彼らの信じる神様もまた取り込んでしまうのです。取り込むといっても、信じるわけではない。彼らが大切に思っているわけだから、それを尊重するという姿勢。しかし一神教はそうではありません。尊重しないし、認めないのです。それが多神教一神教のちがいなのです。
 ローマの多神教にはコーランとか聖書のような経典のようなものもない。経典がなければそれを解釈する必要もないから、専業の聖職者も不要。祭儀だって皇帝が普段から着ているトーガを頭から被って執り行って、それでおしまいです。
 われわれ日本人が信じるのもやはり多神教の神だろうと思います。本質的に、本来的に多神教なのです。神戸にはユダヤ教徒のためのシナゴーグイスラム教徒のためのモスク、それにキリスト教の教会もある。われわれはそれを許容するわけです。
 寛容さというのは、何も強者が弱者に与えるものではありません。英語ならばトレランス(tolerance)という言葉がありますが、「他者の存在を我慢して耐えてあげよう」という意味合いがある。しかし本来の寛容というものはそういうものではありません。ラテン語のクレメンツィアを語源にしたクレメント(clement)の「相手の存在を認める」というものです。相手の信じる神が鰯の頭でもお稲荷さんでも、それが彼にとって大切なものなのであれば尊重しよう、それが寛容というものです。
 たったそれだけのことなのですが、これはわが日本人が世界に対して堂々と主張していい美点です。もうかつてのローマ人もギリシア人もこの現代にはいないので、堂々と多神教徒であるのは、今はわれわれ日本人くらいなのです。
 ところが一神教の側は相変わらず寛容ではないんですね。キリスト教の聖書を読んでみて下さい。イエスは「われらの神の前では」誰もが平等であると言っています。一応カトリック教徒であるわが息子に「イエスの言う通りならば、ママとあなたは平等ではないのよ」と私は言っています。イスラムの場合も同様です。他宗教の人間は平等どころか奴隷にすることも可能なのです。イスラム国が他の宗教を信じる人々を奴隷にしていたのはみなさんもご存知でしょう。
 奴隷制というのは何も古代のものではありません。中世にもずっとあった。奴隷制がまずいということになったのは、ようやく十九世紀に入ってからですね。それまでは同じ宗教を信じている人間は奴隷にできなくとも、そうでない人間ならば奴隷にできた。
 一神教徒である彼らとわれわれ日本人とでは文化がちがうのだから、彼らのやりかたを尊重して、「野蛮だ」と批判するのは控えるべきでしょうか? でも時にはわれわれ日本人もはっきり言うべきなのです。キリスト教イスラム教も、別の宗教を信じる人間とは平等ではない、奴隷にしても構わないという部分を、なぜ経典から削らないのか、残したままなのは一体なぜなのか、と。

 

 
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