これは面白い本です。
獅子王さん(八角部屋)
2人が幕下だったあの日のことは、今も忘れない。いつも通り、番付下位から稽古が始まり、そろそろ幕下、という頃だった。だが力士が誰も土俵に入らず、時間が止まったようになった。
稽古場に微妙な空気が流れた。
獅子王は首、北勝峰は腰を痛めており、この日は相撲を取らずに軽めに終えようと考えていた。
力士は、常に師匠の顔色をうかがう習性がある。親方の機嫌が悪くなってはまずい──。気づくとに人は土俵に入り、三番稽古を始めていた。
三番稽古は、同じ相手と続けて相撲を取る。時には1時間にも及ぶことがあった。2人は痛みをこらえながら、稽古場を盛り上げた。すると八角は気持ちが乗ってきたのだろうか、廻しを締めて土俵に下りてきた。最後には、師匠が胸を出してのぶつかり稽古。ぶつかり稽古は、稽古の締めくくりに行われるもので、一方が胸を出し、一方が頭をつけて前傾姿勢で押していく。スタミナ養成にもなり、心を鍛える場にもなる。最もきつい稽古のつ1つだ。
2人は気力、体力を出し切った。すると八角に、こう声をかけられた。
「2人はもう、廻しを外して風呂へ行け」
獅子王と北勝峰は風呂で体を洗って一息ついていると、意外な展開が待っていた。師匠が氷嚢を手に持って風呂場に入ってきた。獅子王の首、北勝峰の腰を、自らの手でアイシングしてくれた。シャワーで冷水を当てながら、黙々と。言葉はなかったが、2人への師匠の思いは伝わってきた。北勝峰は、このエピソードを語る時、自然と熱くなる。
元横綱や元大関など有名だった元力士が顔を並べる親方に比べ、若者頭や世話人の存在はあまり知られていない。どちらもいわゆる裏方。力士や親方と同様に相撲部屋に所属し、協会を下支えしている。
若者頭は主に、若い衆への指導や土俵の進行が仕事になる。現在は定員いっぱいの8人が務めており、そのうち7人が元関取。明治時代までは準年寄の待遇で、昭和時代は巡業で付け人がついた。NHK大相撲中継では、若者頭が幕下以下の向こう正面に座り解説を担当する。角界では「カシラ」と呼ばれる。土俵でケガ人が出た時、大型の車いすを運んできたり、表彰式の時の補佐、休場力士の受け付け、懸賞金の管理などを務めたりもする。
世話人は、若者頭よりさらに裏方だ。定員は平成16(2004)年から5人増えて13人となった。現在は8人が務めており、元関取は3人、元幕下が5人。業務は雑務全般で、本場所中は東西の支度部屋前に1人ずつが常駐し、警備にあたる。そのほか、入場口でのチケットのもぎりの補佐、館内ラジオの貸し出しも行う。国技館の力士入り口となるJR両国駅前に近い南門には、世話人の詰め所となる小屋がある。その隣のテントでは、支度部屋への持ち込みが禁じられている携帯電話を預かる。
(中略)世話人がテレビに映ることは、まずない。映らないようなところが、世話人の職場なのだ。
そんな世話人の中に、協会トップの理事長をはじめとする親方衆や、横綱以下力士たちからも全幅の信頼を寄せられた人がいた。それが、友鵬だ。
友鵬は関取昇進に挑戦した幕下上位から落ちると、おおむね幕下を維持したが
次のチャンスをつかむまでには至らなかった。
そんな時、世話人として日本相撲協会に残ってはどうかという提案が、大鵬からあった。
当時、世話人の定員は「8」。停年などで空きが出なければ、補充されない。世話人になるには、適任とされる者が師匠を通じて推薦され、日本相撲協会の理事会に承認される必要がある。
雑務の連続で、つい愚痴をこぼしたこともある。目立つこともなく、認められることも少ない世話人。「友鵬さん、ここまでやっても誰も評価してくれないですね」とぼやくと、慰めるでもなく、答えを返すのでもなく、「よし、今日はメシ食いに行くぞ」と言って、連れ出してくれたという。
錦風さん (尾車部屋)
この場所後の2月1日付けで、錦風は日本相撲協会の世話人として正式採用された。理事会で満場一致だった。
尾車の親心だった。
「俺からすれば、先のことを考えるとそっちのほうがいいから、そうしなさいと言ったの。錦のお父さんに『採用になりました』と伝えたら、泣いて泣いて。息子が力士になって、これからも長く協会に携わって仕事ができる。関取にはならなかったけど、お父さんは将来を心配していたから、泣いて喜んで、『親方に預けてよかった』と喜んでくれたよ」
誰からも信頼され、真摯に土俵に向き合っていた錦風だからこそ、世話人としての道が残された。