膨らまない話。

Tyurico's blog

読書メモ 『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』

反知性主義を克服しなければ、反知性主義が分断と危機をもたらす、という本ではない。
そもそもアメリカでは反知性主義は知性偏重へのカウンターとしてあって、「反知性主義」は批判的に用いられる用語ではなかったという話。
面白い、というか私がアメリカに関して前からずっと知りたかった方面のことが多く書かれている。
 

 (ソローは)しかし、その割にはお気楽で無責任な側面もあったようである。税金の不払いで投獄された時には、誰かが代わりに税金を払ってくれると、保釈された彼はさっさと自分の畑のコケモモ採りに行ってしまったという。彼は、気高い精神の自由を強調したが、実生活では結婚も就職もせず、自立することもないまま長くエマソンの庇護と援助に依存した。彼がしばらく過ごしたウォールデンの森は、そもそもエマソンの所有地を彼の好意で借りたものである。
 エマソンによると、ソローは説教者だが説教壇をもたない。学者でありながら学問を糾弾する。厳粛な良心をもって呑気なアナーキーを推奨する。いわば「ハーバード卒のハックルベリー・フィン」みたいな存在である。ちょっと矛盾した滑稽な人物だが、反知性主義にはどちらの側面も重要である。ハーバードを卒業するようなインテリだからこそ、既存のインテリ集団を批判する能力もある、ということなのだろう。後に見るように。このような矛盾は現代の反知性主義者にも共通するところがある。
p.142-143

 前述の「リバー・ランズ・スルー・イット」に、とても面白いシーンがある。幼いノーマンが「メソジストって何?」と尋ねると、父は「読み書きのできるバプティストさ」(Baptists who can read)と答えるのである。つまり、バプティストは読み書きもできないが、メソジストはもうちょっと上で、読み書きぐらいはできる、ということである。
中略
アメリカの映画館なら、大喝采を受けるところである。アメリカ人は、こういうジョークが大好きである。自分がバカにされたそのバプティストやメソジストだと、いっそう喜んで大笑いする。そういうところで「ポリティカル・コレクトネス」を持ち出すのは野暮である。
中略
実は、宗教改革史においても同じようなことが起こった。ルターは、当時の流行歌や恋愛の旋律を自由に取り入れて讚美歌を作ったのである。宗教曲と世俗曲と境目は、専門家にも線引きが難しいそうだが、そんなことを気にかけるような人は当時の伝導者にはいなかっただろう。
p.149

 

 ここからもわかるように、反知性主義は単なる知性への軽蔑と同義ではない。それは、知性が権威と結びつくことに対する反発であり、何事も自分自身で判断し直すことを求める態度である。そのためには、自分の知性を磨き、論理や構造を導く力を高め、そして何よりも、精神の胆力を鍛えあげなければならない。この世で一般的に「権威」とされるものに、たとえ一人でも相対して立つ、という覚悟が必要だからである。だからこそ反知性主義は、宗教的な確信を背景にして育つのである。
p.177

 

 (アメリカの)反知性主義の原点にあるのは、この徹底した平等主義である。本書の冒頭で説明したように、反知性主義は、知性そのものに対する反感ではない。知性が世襲的な特権階級だけの独占的な所有物になるのとへの反感である。つまり、誰もが平等なスタート地点に立つことができればよい。世代を越えて特権が固定されることなく、新しい世代ごとにチャンスがただ与えられればよいのである。 p.235

 事実それは、そのような「たたき上げ」が可能な時代だった、とも言える。フランクリンが科学的な実験を行ったのは粗末な薪小屋だった。リンカンは丸太小屋から弁護士になり、フィニーは独学で大学の学長になることができた。そういう実例を見ていれば、高等教育はどうしても無益なものに映る。ほとんどの実業家や専門人は、正規の教育を受けることなく立身出世を遂げることができた。カーネギーだけではない。鉄道で財をなしたスタンフォードやヴァンダービルトも、この時代の恩恵にあずかった。
 だが一九世紀も末になると、こうした「たたき上げ」の理想が徐々に時代遅れになっていく。産業の規模が急速に拡大して、徒弟の手作業や職人の経験知だけでは間に合わなくなるからである。スタンフォードやヴァンダービルトのような人は、ちょうどその両方の時代を経験したために、自分自身は教育がなくても成功できたが、新しい時代には教育がないことで密かな劣等感を感ずるようになった。だから彼らは、手元にある大金を投じて大学を創ることに精を出したのである。大学をさんざんに揶揄していたカーネギーも、徒にも後には自ら大学を創立し、多くの大学に図書館を寄贈している。 p.239