膨らまない話。

Tyurico's blog

この落合恵子の文章がどうして変なのかようやくわかってスッキリ

 

翻訳の仕事をすすめながら、著者の気持ちと、こんなにもしっくりと溶け合う時間……ちょうど海とひとつになるような……を持てたことを、わたしはとても幸福に思う。

 
落合恵子の『海からの贈りもの』の訳者あとがきの結び、なんだか陶然と綴られているこの文章だが、気持ち悪い変な文章だという違和感があってずっと長いこと引っ掛かっていた。
最近、何が変なのかやっと気づいた。ようやくスッキリした。
やはり「好みじゃない」とかの問題ではなかったんだよな。表現がおかしいんだ。
 
「~ような」というのは直喩だ。「山のような」とか「夜の海のような」という直の比喩の表現。
だがその前の「海とひとつになる」というのもまた比喩表現だ。普通の描写とか説明とかではない。(ただこれ、どういう比喩なんだかさっぱりわからない。まさか海に落ちて死んだというのではあるまいが、「海とひとつになる」っていったいどんな状態だ。「ちょうど」ってのもどの辺がちょうどなんだか全く意味不明。ほんとに雰囲気だけで何一つ中身のない空っぽの文章。)
比喩表現の後ろにさらに「ような」という直喩の尻尾が生えているから変なのだ。化けそこないだ。

だが落合という作家はやたらと不出来な比喩で語りたがるのだった。

以前にも書いたことだが、落合は比喩で表現するのが文学だとでも思い違いをしてるんじゃないのか。
文学趣味というのも困ったもんだ。
 

ある意味、私は落合のこの翻訳を日本一読み込んでいる読者だと言っていいだろう。
 
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