膨らまない話。

Tyurico's blog

玉袋筋太郎さんが語るタモリ倶楽部の話とか

 
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全文コピーして転載するのはいけないんだろうけどどうせしばらくすると元記事が消えて読めなくなるんだ。
こういう良い文章が読めなくなるのはもったいない。文句が来たら非公開にする。

「毎度おなじみ、流浪の番組タモリ倶楽部でございます」。4月1日の放送をもって終了した『タモリ倶楽部』。1982年10月の初回から約41年の歴史を刻んだ深夜バラエティ番組の金字塔、その伝説を今こそ語ろう。
 
タモリ倶楽部』でお酒が絡む企画といえば玉袋筋太郎(たまぶくろ・すじたろう)さん! 番組との出会いからタモリさんとの貴重な〝アフター〟のことまで、安齋 肇さん、南田裕介さんに続き、たっぷりと話してもらいました!
 
■大人の楽しみ方を教えてもらった
――初めて『タモリ倶楽部』を見たときを覚えてますか?
 
玉袋筋太郎(以下、玉袋) 中学生だよね。すぐハマりました。もちろんタモリさん目当てもあるけど、番組内のミニコーナー「愛のさざなみ」(※1)に出ていた女優の中村れい子さんの大ファンだったんですよ。「愛の山嵐」(※2)みたいなエッチなものも印象深い。
 
あと「廃盤アワー」(※3)とかは、今のバラエティ番組にも通ずるとこじゃないですか。大人の楽しみ方を教わった感じかな。

(※1)「ドラマシリーズ 男と女のメロドラマ 愛のさざなみ」 1982~83年に放送。当時のメロドラマにありがちだった「運命の再会」をパロディにしたミニドラマ。タモリと中村れい子の男女が再会を果たしたところで終わるのが毎回の約束事。

(※2)「連続セーラー服ドラマシリーズ 愛の山嵐」 1986年に放送。セーラー服好きの音楽教師(タモリ)が、女子生徒ふたりに「不潔よ!」と言われるのが毎回のオチ。

(※3)すでに廃盤になったレコードを取り上げ、人気度や中古レコード店の販売価格で各レコードのランキングをつける番組初期の名物企画。
 
――タモリさんは番組の初期からマニアックなことに造詣が深かったんですか?
 
玉袋 当時そういうあしらいをするタレントっていなかったんじゃないかな。その当時は「ワー」って騒ぐお笑いが全盛だったけど、かわすとか、はたき込むとかそういう笑い。
 
――後にタモリさんはどんどんメジャーに行くけど、『タモリ倶楽部』はずっと同じノリで続けてましたね。
 
玉袋 タモリさんの番組って、基本、長寿番組になるじゃないすか。その中でも『笑っていいとも!』はファミレスだったけど、『タモリ倶楽部』は深夜食堂みたいな番組だったね。知る人ぞ知る店。仕事がハネた後に行く店とかそんな感じ。
 
――では、番組に出るようになったのはいつからですか?
 
玉袋 俺が25ぐらいのときかな? 最初、依頼が来たときは断ったんですよ。「浅草キッド」は〝ビートたけし原理主義〟だから、タモリの番組に出てたまるかって。
 
そしたら、あの頃に住んでた中野(東京都中野区)の自宅まで『タモリ倶楽部』のディレクターとプロデューサーが直接やって来て出演依頼をしてくれたんだ。あの粘り強さと誠意に負けて、出ることにしたんです。
 
――その頃はどんな企画で呼ばれたんですか?
 
玉袋 エロ系が多かったね。官能小説を読んだり、高田馬場のカリスマヘルス嬢をプレゼンしたり、夕刊紙のエロページ担当の記者を集めた座談会に参加したり。
 
――楽しそう!
 
玉袋 でも大変だったよ。マニアックな企画だと、こっちも事前に知識を入れていかないといけない。台本のセリフだけでも成立はするけど、それ以外のネタをどう突っ込んで笑わせるか、それが自分らの芸だと思ってたんで、そこはすごい意識していました。
 
――タモリさんはどんな感じで?
 
玉袋 俺らが現場でメイクしてもらってると、タモリさんが車で来るんですよ。「おはようございます」「うす」、なんつって。
 
ヤマケンさん(演出の山田謙司氏)が「今日こんな感じです」って台本渡して。パーッと読んで「わかった。じゃあいこう」となって、すぐ「毎度おなじみ、流浪の番組タモリ倶楽部でございます」って始まる。
 
――タモリさんとも打ち合わせすると思ってました。
 
玉袋 中身は演出側と出演者で全部できているんですよ。タモリさんは、そこに乗っかってくる感じ。
 
――テレビで見たまんまの空気感というか。
 
玉袋 そうなんですよ。あとやっぱり言いてえのは、出た出演者がみんな喜んで帰るってこと。あの番組はいわば〝名店〟なんですよね。
 
タモリ倶楽部』って名店ののれんをくぐって入ったらなじみの店員さん(スタッフ)がいて、みんなオペレーションも完璧なの。いい店に来たなあって。
 
北千住(東京都足立区)の大はし(明治10年創業の飲み屋)のような感じ。だから番組に出る人はみんなウキウキして来て、終わった後、うわー面白かったって帰る。最高なんです。
 
――タモリさんとの共演は緊張するのかと思いましたが。
 
玉袋 そりゃあ初めての人は緊張しちゃうかもしれないけど、スベっても、タモリさんが笑いにしてくれるから、誰が来ても大丈夫。あの店は、いつもあったかいんだよな。
 
■夢のような〝森田倶楽部〟の時間
――玉袋さんはタモリさんとお酒を飲む企画も多かったですよね。「ラーメン屋で呑む」(※4)という企画をすごい覚えています。
 
玉袋 町中華で酒を飲むって、今や普通だけど、その先駆的な企画だったんだよね。ほかにも「ホッピー」を飲みまくる回は楽しかったな。アルコール度数が低いのに俺、最後ベロベロに酔っぱらっちゃってさ。

(※4)タモリと仲間たちが、酒場ではない店で酒を飲む「どこでも酒場」シリーズのラーメン店編。同シリーズは毎度タモリがその店の食材を使ってゲストに料理を振る舞うという贅沢な回になった。ラーメン屋以外だと、乾物屋、八百屋、豆腐屋など。
 
――タモリさんの前だからといって飲む量を抑えることはしないんですね。
 
玉袋 飲んじゃうね(笑)。最初からアクセル踏んで空回りしちゃって。やっぱ飲んで壊れる人がいないと番組が面白くなってかねえから。井筒(和幸)監督(※5)もそうだよね。ニュー新橋ビルで飲んだ回かな。途中から「もうなんでもええねん」ってなって。

(※5)映画監督。『タモリ倶楽部』の酒を飲む企画に高確率で出演していた。
 
――タモリさんもお酒を飲んでいますよね。
 
玉袋 そうなんだよ。タモリさんがご機嫌になっちゃって、収録後にときどき「もう一軒行くか?」って誘ってくれて。それがたまんなくうれしくてさ。
 
タモリ倶楽部』のアフターだね。みんな車に乗っけてもらって、タモリさんの行きつけの店に行くんだよ。勝どき(東京都中央区)の立ち飲みの有名な店とか。そこのご主人は「いらっしゃいませ。森田さん」って感じで、周りのお客さんも誰も騒がない。大人の空間だったな。
 
――ほかに特に印象に残っている〝アフター〟は?
 
玉袋 なぎら(健壱)さんが同席した会だね。そこでタモリさんとなぎらさんが思い出話をするんですよ。なぎらさんがデビューの頃、タモリさんを意識してた話とか、タモリさんが若い頃、横浜に遊びに行ってた話とか、スターたちの素の話がてんこ盛り。
 
いわばそこは「森田一義」(タモリの本名)がマスターの〝森田倶楽部〟だよ。その特等席に座っているんだから、夢のような時間だったね。
 

――うらやましいです。
 
玉袋 銀座で飲んだときも、印象深かったな。帰るときに俺が「タクシー拾います」って言うじゃん。そしたらタモリさんが「いらない、俺歩いて帰っちゃうから」って、すっと銀座の雑踏に消えてくんだ。それを見ながら俺の頭の中では、『世にも奇妙な物語』のあの音楽が流れてたわけよ(笑)。
 
――最後に、番組が終わる理由としてテレビ朝日が「役割を果たした」と言ってましたが、どう思いますか?
 
玉袋 『タモリ倶楽部』はマニアックなことばっかやってきて、日陰にあったモノゴトに光を当てた。そういったモノの見せ方とか、面白がり方を全部教えてくれたんだよ。普通の人から見たら確実に変態扱いされる趣味の人が出てきたわけじゃないですか。
 
――昔はそんなマニアが出る番組なかったんですよね。
 
玉袋 ないない。それをマニアックなまま出すのが『タモリ倶楽部』。それは「ハウフルス」(同番組の制作会社)が作るほかの番組にも生かされていて、その代表例が『出没!アド街ック天国』だよね。
 
タモリ倶楽部』は、いろんな情報番組の始祖みたいなところがあると思うよ。『タモリ倶楽部』から〝のれん分け〟したような番組がたくさんあるという意味では、つけ麺の名店「大勝軒」みたいだよね。
 
ちゃんと伝統を引き継いでる店もあれば、味がブレてて、名前だけじゃねえかみたいなところもあるけど、そこは見る人が判断すればいいんじゃないですかね。
 
まあでも、俺が改めて言いたいのは『タモリ倶楽部』は名店だったってことですよ。テレビ界の金字塔だよ。
 
玉袋筋太郎(たまぶくろ・すじたろう) 1967年生まれ、東京都出身。高校卒業後にビートたけしに弟子入りし、87年に水道橋博士と「浅草キッド」を結成。テレビ、ラジオで活躍しつつ、『絶滅危惧種見聞録』(廣済堂出版)、『男子のための人生のルール』(イースト・プレス)など著書も多数。スナック文化の普及に努める社団法人全日本スナック連盟会長